こんにちは micaです。
私は小学校3年生の時から30年以上、三浦知良選手を追いかけ続けているファンです。カズ選手の最新情報、これまでの歩み、ユニフォーム等々について掘り下げるブログ「キングカズタイムズ」を日々更新しています。
本日は「三浦知良(カズ)選手の歴代チーム(遍歴) 年表まとめ」について書かせて頂きたいと思います。
三浦知良(カズ)選手のチーム遍歴 年表について
それでは「三浦知良 選手 チーム遍歴まとめ」を当ブログ管理人手持ちのユニフォームや、動画で早速見ていきましょう。
目次
静岡学園高校(中退)1982〜
静岡学園高校に入学するもブラジル行きの想いを断ち切る事ができず、約8ヶ月で中退。ブラジルへ単身渡り武者修行が始まりました。
CAジュベントス(ブラジル)1982〜
正式名称:クラブ・アトレイティコ・ジュベントス
一足先にブラジルに渡っていた実父の納谷宣雄さんが受け入れ先を探し見つけたのが
エンジ色のチームカラーを持つ、CAジュベントスでした。
このジュベントス、創立1924年のチームですが、創設者がイタリアのユベントスのファンだった事で(ポルトガル読みだとジュベントス)、ジュベントスというチーム名をつけたと言われています。
ここがカズ選手のブラジルサッカー生活のスタート地点だと思うと、感慨深いですね。
この頃カズ選手は人生で初めてのフットサルを経験、サンパウロ州の大会で優勝した事もありました。
三浦知良(カズ)選手 CAジュベントス時代についてのまとめ記事はこちら↓↓↓
キンゼ・デ・ジャウー (ブラジル) 1984〜
次にカズ選手は(正確には1993年の年末に)サンパウロ州の内陸部にあるジャウーに移りました。
この当時はまだプロ契約ではなく、ジュニオール(18歳〜20歳くらいの年代が所属するプロ予備軍のような契約)としての契約でした。
※その後、サントスFCのジュニオールへ移籍。
1985年8月SBSユースにキンゼ・デ・ジャウーユースの一員として凱旋し、当時の静岡高校選抜に選出されていたゴン中山選手や、武田選手らと対戦し活躍しました。
サントスFC(ブラジル)1986〜
ジャウーのジュニオールから、サントスFCのジュニオールに移籍したカズ選手は「タッサ・サンパウロ」というジュニオールの大会で結果を残し、そこでの活躍が認められ、、、
遂に1986年あのペレも在籍していた
名門サントスFCと初めてのプロ契約を結びました。
その快挙は当時、日本でも大きく報じられましたが、同じポジションにはブラジル代表のスター、ゼ・セルジオ選手が在籍、さらにプロとしての経験不足もあり、結果が出ずにトップリーグ2試合のみ(ノーゴール)の出場にとどまりました。
当時のチームメイトには、ジュビロでも活躍をしたデゥンガもいてデヴュー戦では厳しく叱責されたとカズ選手は後のインタビューで語られています。
その期間に日本へも帰国。以下の番組に出演しています。
※釜本さんが「水戸なつめ」ちゃんみたいですね。
↓↓カズ選手のサントス時代について書いた記事は以下です
パルメイラス(ブラジル)1986〜
※キリンカップ出場の為、一時的な特別契約選手として
1986年5月にはSEパルメイラスと特別契約を交わし、
キリンカップ出場の為、凱旋帰国しました。
↓キリンカップ決勝戦 カズ選手の出場は残念ながらありませんでしたが、インタビューがあります!(奥寺康彦選手がブレーメンでプレーしています。)カズ選手の背番号は17番でした。
SEマツバラ(ブラジル)1986年〜
サントスFCでの出場機会に恵まれなかったカズ選手は、新天地としてパナマ州の田舎町カンバラにあるSEマツバラへレンタル移籍しました。
翌年の1997年には正式契約を結ぶと、レギュラーとして活躍しました。
ちなみにこのマツバラというチームは岡山県からの移民が綿農園で成功したマツバラ一家の子どもたちが遊び半分で立ち上げたチームだと言われています。
このマツバラでの活躍を、ブラジルの名選手になぞらえ「ガリンシャ・ジャポネーズ(日本のガリンシャ)」と讃えられました。
CRB(ブラジル)1987〜
マツバラとの契約が満了した後、パルメイラスやポルトゲーザの練習に参加するも契約には至らず、強豪インテル・ナシオナルとも契約寸前で白紙に戻されたり、、、という中、
ようやく正式名称:「クルーベ・デ・へガッタス・ブラジル」
通称「CRB」と契約しました。
※CRBはアラゴアス州、マセイオという地域にあるプロチーム。
ブロジル全国選手権では6試合で4アシストを記録。マセイオの街ではカズ選手を知らない人がいないという程、人気の選手となりました。
↑当時ブラジル最大のテレビ局「グローボ」の人気番組に取り上げられ「カミカゼドリブル」と形容されました。
キンゼ・デ・ジャウー(ブラジル)1988〜
CRBの活躍を経て、サンパウロ州1部リーグのキンゼ・デ・ジャウーと契約しました。
しかも背番号は11番。
左ウィングのポジションを与えられていましたが、プロ契約以降アシストばかりで「得点が無い状況にひっかかっていた」と後にコメントされています。
そんな中、1988年3月20日サンパウロ州で最も人気のあったチーム「コリンチャンス」との試合、
前半42分、ヘディングでプロ初ゴール!
”KAZU”の名前はブラジル中に知られる事になりました。
その後、カズ選手の活躍は一気に加速し、ジャウーでサンパウロ選手権に全試合出場し、最優秀選手を3度受賞しました。
コリチーバFC(ブラジル)1989〜
ジャウーでの活躍により、
パナマ州の強豪コリチーバからオファーを受け、契約しました。
当時のコリチーバはブラジル全国選手権も制している強豪。カズ選手の加入に加え、ジーコの兄であるエドューが監督に就任するとチームは快進撃を続け、パナマ州選手権で優勝。ブラジル全国選手権に出場。
「コリチーバ史上、最強チームだ」
とサポーターから熱狂的な支持を受けるようになりました。
サントスFC(ブラジル)1990〜
コリチーバでの活躍、快進撃を受け、初めてプロ契約を結んだサントスFCから、改めてオファーが届き、、、
4年ぶりに古巣サントスに返り咲きました。
マツバラにレンタルで放出されて以来、「もう一度サントスで活躍する」という事を目標に置いていた事もあり、他チームからの誘いを断りサントスFC入りを決めたようです。
移籍後はレギュラーを確保。1990年4月29日の強豪パルメイラス戦では1得点1アシストを記録し、
この日のカズ選手のゴールシーンは、
ブラジルのサッカー誌「ブラカー」の表紙を飾りました。
↓↓カズ選手のサントス時代について書いた記事は以下です
読売日本サッカークラブ 1990〜
Jリーグが発足の現実味を増す中で、
ブラジルに残りプレーするよりも、日本国内でプレーしていた方が日本代表選考に入りやすいのではないかという理由もあり帰国を決断。
その他にもブラジル時代に対戦相手の監督であったカルロス・アルベルトが読売クラブの監督になり、熱烈に誘ってくれた事も大きな要因だったとあとのインタビューで語っていました。
移籍時の背番号は24でした。
第71回天皇杯決勝の様子↓素晴らしいメンバーですね。
三浦知良(カズ)選手 読売クラブ入団ついての記事はこちら↓↓↓
Jリーグ開幕を控え、チーム名も「ヴェルディ」となり、胸スポンサーにはコカコーラ社が付きました。
第一回ナビスコカップ(現ルヴァンカップ)決勝はヴェルディ対エスパルスでした!↓↓↓
ヴェルディ川崎 1992〜
日本初のサッカープロリーグ「Jリーグ」の開幕に向けてチーム名もヴェルディという名前に変わりました。Jリーググッズを専門に扱う店「カテゴリー1」には人気チームのタオルや、ステッカー、グッズを購入しようと若者が押し寄せていました。もちろん、私も。
ここであえて触れる必要もないかもしれませんが、
ご存知の通りカズ選手は Jリーグ開幕初年度の優勝を経験、
年間MVPに輝きました。
↓こちらは当時のナビスコカップの様子。(現在はルヴァンカップに名称変更しています)
そして1993年にはアジア年間最優秀選手賞に輝いています。
ジェノア(イタリア)1994〜
1994年には、どうしても移籍を承認しようとしなかった当時の読売オーナー渡邊恒雄から、1年限りのレンタルという条件でようやく承認を取り、
セリエAの古豪「ジェノア」に移籍。
サンプドリアとのジェノバダービーで日本人初のゴールを記録しました。
セリエA開幕戦であったACミラン戦ではスタメン出場するも、前半途中にバレージ選手と激突、鼻骨骨折と眼窩系神経を損傷してしまいました。
三浦知良(カズ)選手 ジェノア時代についてのまとめ記事はこちら↓↓↓
ヴェルディ川崎 1995〜
1995年ヴェルディに復帰。
Jリーグ2ndステージ26試合で23ゴールを挙げ、
得点ランキングの上位に名を連ね、健在ぶりを知らしめました。
(この時の推定年俸が2億を超えたと言われています。)
しかし、その後ヴェルディの経営から読売新聞社が撤退し、クラブの経営状況が急激に悪化。その煽りを受ける形で高額な年俸を受け取っていたカズ選手が1998年年俸ゼロ円提示の戦力外通告となってしまいました。
クロアチア・ザグレブ(クロアチア)1998〜
年俸ゼロ円提示の失意の中、オファーが届いたのは、、
クロアチアの強豪ザグレブでした。
この移籍については「ザグレブに大きな影響力を持っていた当時のクロアチア大統領フラニョ・トゥジマンの意向で、ジャパンマネーを狙ったものだ」という報道も当時出ていましたが、真相は不明です。
しかし、カズ選手はデビュー戦でPKを失敗してしまい(アシストは記録)、その後、悪いサイクルから抜け出せない印象がありました。さらにFWのエゴイスティックな動きを嫌う監督と、シュートを狙いながらリズムを作っていくタイプのカズ選手との間には、なかなか信頼関係が構築されず苦しんでいるような、そんなシーズンでした。
シーズン通算0得点1アシストで終えました。
三浦知良(カズ)選手 ザグレブ時代についてのまとめ記事はこちら↓↓↓
京都パープルサンガ 1999〜
1999年ザグレブで苦しんだカズ選手にオファーを出したのは、
日本代表時代の恩師である加茂 周監督率いる、京都パープルサンガでした。
入団当初の背番号は36番でした。
そんなカズ選手は移籍後初のJリーグ復帰戦であるヴィッセル神戸との試合で、2ゴールの活躍をした他、翌年の5月13日にはJリーグ通算100ゴールを記録。
33歳ながらシーズン通算17得点を決め得点ランキング3位となりました。
ゴールを量産したカズ選手の活躍をよそに京都サンガはJ2への降格が決まってしまい、高額な年俸をもらっていたカズ選手は、またしてもゼロ円提示にて戦力外通告を受けました。
三浦知良(カズ)選手 京都パープルサンガ時代のまとめ記事は以下↓↓↓
ヴィッセル神戸 2001〜
2001年からは永島昭浩選手の引退直後に加入し、
キャプテンとして活躍。
加入したシーズンは11ゴールの活躍で健在ぶりをアピールしました。
しかし、2005年は開幕3戦連続ゴール等があったにもかかわらず、監督やコーチ(兄の泰年さん)の解任後、ベンチ入りすらさせてもらえず、シーズン途中でキャプテンの交代を言い渡され事実上の戦力外となりました。
2005年のボルトンとの親善試合が神戸でのラストマッチとなりました。
三浦知良(カズ)選手 ヴィッセル神戸時代のまとめ記事は以下↓↓↓
横浜FC 2005〜
2005年7月ヴィッセル神戸で事実上の戦力外となっていたカズ選手を
横浜FCが獲得。
J2への電撃移籍となりました。
当時の新聞には「カズ、オファーはJ2横浜FCだけ」というような記事が出ていました。 当時J2はかなり格下と見られていて、
そんな中での契約についても「試合が多くていいじゃない」とコメントしたカズ選手が印象的でした。
シドニーFC(オーストラリア)2005〜
横浜FC移籍直後の11月。
2005年に設立したばかりのオーストラリアAリーグ初のゲストプレイヤー(Aリーグの公式戦4試合のみ出場が認められる特別枠選手)としてシドニーFCに期限付き移籍を果たしました。
カズ選手はAリーグで4試合に出場し、当時首位を走っていたアデレード戦では2ゴールと活躍し、チームでのポジションを獲得しました。
シドニーFCは同年12月に日本で行われたクラブワールドカップにも出場を果たし、カズ選手は背番号11番を付け準々決勝と5位決定戦にフル出場しました。
横浜FC 2006〜
2006年2月からは横浜FCに復帰。
選手兼任監督補佐という肩書きであったが、登録上は選手での登録でした。このシーズン39試合に出場し、6ゴール。横浜FCのJ1昇格に貢献しました。
エスポラーダ北海道 2012〜
※フットサル1試合限定
2011年12月カズ選手は横浜FCに所属は維持しながら、Fリーグ(フットサル)の「エスポラーダ北海道」にJリーグ選手枠として登録。府中との試合に1試合限定で出場した。
※↓↓↓2012年にはフットサル日本代表としてワールドカップ出場を果たしました。詳細記事は以下。
横浜FC 2012〜
2012年以降はSC相模原や、古巣の東京ヴェルディからもオファーを受けたとの報道がありましたが、横浜FCと契約。
2020年横浜FCはJ1に復帰。カズ選手は川崎フロンターレ戦でJ1リーグ戦4680日ぶりにスタメン出場を果たしました。
三浦知良(カズ)選手 最年長記録についての記事はこちら↓↓↓
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三浦知良選手のチーム遍歴をまとめてみて(最後に)
カズ選手のチーム遍歴(年表)をまとめてみましたが、
正直、書ききれません。
これに加えファンとしての想いまで書き加えていくと、全然まとまらないので、まとめ記事としてはこのくらいのもにしておきます。
それぞれのチームでの詳細は別の記事で書いていくつもりです。
またユニフォームだけをゴッソリまとめた記事は以下。
という事で、今日はここまで。
今日も読んで頂きありがとうございました。
mica
カズ選手を語る上で、チーム遍歴を振り返る事はとても重要だと思っていたので、まとめてみました。サントス(ブラジル)や、ジェノア(イタリア)との契約という華々しいものから、ヴェルディや京都サンガからのゼロ円提示や、ヴィッセル神戸からの戦力外通告等、厳しい時期もあり・・・決して順風満帆ではないサッカー人生。だからこそ、みんなが愛してやまないスーパースターとして現在も活躍しているんだと思います。
逆境の時にカズ選手が考えた事、選んだ選択、とった行動・・・
全てに「教え」「気づき」が詰まっています。